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COLUMN

追悼 もう一度観たかった『志村魂』

 思わず「えっ!」という大声を発して、その訃報に接することとなった。3月30日の午前10時に差し掛かる頃。定休日ではあったが、10時からスタートする外部講師を招いた勉強会に参加するため、サロンで講師の方の到着を待っている時であった。思いがけず、志村さんの急逝を報じるニュース速報がスマホに表示された。志村さんが新型コロナウイルスに感染されていることは把握していたが、まさか亡くなるとは想像外の出来事であった。

 

 私が子供の頃、『ドリフ大爆笑』『加トちゃんケンちゃん』『志村けんのバカ殿様』など、志村さんが出演するバラエティ番組は、同世代なら必ず一度は観たことのある絶大な人気を誇るバラエティ番組であった。ちょうど小学校に入る前、年少とか年中とかそれくらいの頃であったが、家にビデオデッキが設置され、志村さんが出演するテレビ番組を録画し、繰り返し観る事が、なにより楽しみであった。私は、志村さんの番組を通じて、子供にしては難しいビデオデッキの操り方を習得していったと言える。その後、志村さん初の冠番組となる『志村けんのだいじょぶだぁ』では、数々の名キャラクターを登場させ、小学生となった私はますます志村さんの笑いの虜となった。と同時に、志村さんの笑いに対し、子供ながらにも段々と「マンネリ」を感じるようになり、とんねるずやダウンタウンが繰り出すコントへの魅力も感じ始めていた頃であった。当時は、今と比べ物にはならない程、テレビが影響力を誇示していた時代である。私たちの世代においては、テレビのバラエティ番組が良くも悪くも行動規範となり、その後の人格形成にも多大な影響を及ぼしたと言っても過言ではない。それくらいのインパクトを、当時のバラエティ番組は、誇っていた。

 

 時は流れて2011年。私は大学を卒業後、上京し都内一店舗を経たのちにKINDに入社し、5年が経過していた。東京での生活にも美容という仕事にも慣れ、少しゆとりを感じ始めていた頃である。幼稚園からの幼馴染が福岡から上京することとなり、私の家に居候することとなった。3月の大震災を経験し、世の中が混迷を極めていた時代であった。そんな中、KINDにご来店頂いていた某芸能関係の方が、志村さんが主演する舞台『志村魂』の総合演出をされているという縁から、『志村魂』のチケットをご案内いただくという機会に恵まれ、二人で観劇に伺った。冒頭の『バカ殿』から、前半は志村さん演じる名キャラクターに扮した懐かしのコント、志村さんの津軽三味線の圧巻の演奏を経て、藤山寛美の新喜劇、そして『変なおじさん』で締めるといった志村さんのお笑い観を存分に発揮した演出に、二人で大笑いしたことを覚えている。途中、舞台ならではのアドリブでの客いじりや、当時、話題となっていた民主党の松本龍復興担当相の失言を引用するなど、懐かしさと新鮮さを併せ持つ志村ワールド全開の素晴らしい舞台であった。その躍動ぶりは、まさに日本のチェップリン、喜劇王と言ったところであり、異論の余地がないのではないだろうか。

 

 死後、志村さんを巡る記事に触れ、私は改めてその偉大さを痛感している。ニッカンスポーツ、梅田恵子氏の記事によれば、志村さんのお笑いに対しては、私以外にも多くの人がその「マンネリ」化を指摘していたそうであるが、当の本人は「マンネリで大いに結構。やっている方の気持ちが新しければ、笑いに古いも新しいもない。ドリフも、バカ殿も変なおじさんも、必死にネタ作ってとことんやり続けてきたわけで。みんなマンネリの域まで達してみろって。」と語ったそうだ(ニッカンスポーツ『「マンネリで大いに結構」志村けんさんのお笑い哲学』(2020.3.30))。たしかに、私が『志村魂』観劇で覚えた感想は、古いとか新しいとかで語る事が出来るものではなく、志村さんの名人芸といった境地であった。一見、マンネリとも受け取れる志村さんの笑いであったが、志村さんは常に笑いに真摯に向き合い、進化していった。故に、今年あたりまた『志村魂』を観てみたいと、お客様と話していた矢先の訃報であった。その死はあまりにも突然で、図らずも死後のエピソードを報じるニュースを見るたびに、落涙することとなった。

 

 志村さんが体現してみせたように広く多くの国民に知れ渡り「マンネリ」と言われるほど、ひとつの事象を伝播することは容易なことではない。多くの人々に笑いを届け、喜びや嬉しさを与え続けた志村けんさんの偉大さを、改めて今、痛感している。その死によって、私も楽しみにしていた『志村魂』も山田洋次監督の『キネマの神様』も、もう志村さんの芝居を観る事は叶わない。このような時代だからこそ、「だいじょぶだぁ」という名ゼリフを、もう一度聞きたかった。